湘友会の歩み、年表
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1921年 |
県立湘南中学校 第1学年始業式 教師6名 生徒125名
(4月21日 机や椅子がないため授業は始まらず、4月26日 授業開始) |
1926年 |
第1回卒業生79名に、前年の4年修了生を加えた86名を会員として湘友会発足
初代会長に赤木愛太郎初代校長就任
第1回総会開催(出席者60名)以降1941年まで毎年開催
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1927年 |
湘友会主催補習科開講(卒業生上級学校進学希望者24名参加) |
「浪人山」 のいわれ |
地図にはないが、湘南の名勝旧蹟の一つ。
補習科の生徒が昼休みなどに現役の生徒が遊ぶ運動場に行けず、校内西隅(現在の弓道場あたり)の小高い丘に集まった。以来、誰が言うともなくこの丘を「浪人山」と呼んだ。
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1930年 |
プール竣工(全職員・生徒の拠金と労働奉仕によって、夏休み1ヶ月で掘り上げからコンクリート打ち込み作業まで和衷協同の精神で完成) |
1931年 |
運動場拡張工事 (湘友会・父兄会の配慮と職員・生徒の労力奉仕により完成) |
1932年 |
第7回総会開催 (湘友会自治化の議論が起こり、湘友会幹事会で規則改正) 「湘友会誌」創刊 |
1933年 |
校歌制定 |
1941年 |
創立20周年記念に名簿発行 |
1942年 |
毎年開催の総会は戦争のため中止 |
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1945年 |
終戦、時に会員は3180名を数えるに至ったが、多くの前途有為な人材を戦争により失う |
「湘南を戦火から守った」ピーク先生のこと |
「湘南大好き人間」を自認する人は多くいるが、ここにアメリカ人でありながら、藤沢の地に、そして秀麗の富士を仰ぐ湘南中学に強く魅せられた一人の青年教師がいた。
創立当初の2年間、英語教師として赴任していたピーク先生である。彼は、帰国後、コロンビア大学で東洋史専攻の教授となってからも、
藤沢や湘南中学に対する愛着の思いを強く抱き続けていた。
しかし、日本とアメリカはあの不幸な戦争に突入する。1945年終戦の年、アメリカの日本本土への攻撃はますます激しさを増し、東京、横浜と戦火は広がるばかり。
そして次は当然藤沢であろう、と誰もが予測したが、結果、藤沢は爆撃されなかった。
藤沢が戦火から免れたその陰には、当時アメリカの対日戦略の経済情報分析に当たっていたピーク先生の存在があった。
それを、戦後私たちは知る。当時彼は、「藤沢に軍需工場がある」という情報に対してひどく心を痛め、
独自の調査で、「その工場(日本精工)が消費物資製造関係の工場である」という報告書をまとめ、国防総省に提出したのであった。
この報告書のおかげで藤沢が戦火から免れたことは、ほぼ間違いのないことと思われる。
後に藤沢の地を訪れたピーク先生は、かつての湘南中学が変わりなく無事に在ることを、大変喜んだと聞いている。
これはまさに、先生の「湘南大好き」の思いが生んだ結果であると言えよう。
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1946年 |
湘友会再建 天野武一氏(1回生)第2代湘友会会長に就任 母校サッカー部第1回国民体育大会で全国優勝
記念誌「湘南サッカー・半世紀を経て」
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1948年 |
母校は県立湘南高等学校と改称(6・3・3制のスタート)
徽章「湘南」、赤・緑・藍の学年別襟章を定める
定時制高等学校ならびに通信教育部が設置される |
1949年 |
母校硬式野球部が全国高等学校野球選手権大会で全国優勝
(初出場で優勝し、深紅の大優勝旗が33年ぶりで箱根の山を越える) |
運動標語と文武両道 |
・普く ・絶えず ・正しく ・強く
創立以来の方針として、運動の目的を選手養成に偏る事なく、全生徒に広く行わせ、かつ種目も生徒の個性に応じて選ばせるようにしていた。
戦後母校は「文武両道」の学校と言われているが、その発端は蹴球部、野球部の全国優勝に続いて、翌年の東大合格者が前年に比べて大きく伸びたことで、全国的にその名が知られたようである。 |
1950年 |
男女共学となる(女子1期生59名) |
男女共学 |
戦後、アメリカ主導で始まった教育改革の一つ「男女共学」の受け入れについては、学内でもいろいろと議論されたようである。
そして、1950年59名の女子1回生を迎えるにあたっての学校側の姿勢は、
「更衣室とトイレだけは別々にするが、あとは全く区別しないから、
男子に伍して頑張れ」というものであった。その結果、クラスの出席者名簿は男女の区別なく、すべて50音順に並べられた。
その後数十年にわたって、日本の学校では、男子の次に女子という出席簿の並べ方が続いたことを考えれば、女子1回生の堀田暁子さんが
記念誌の中で言われるように「この事実は日本の教育史のなかで特記すべきこと」だったのであろう。 |
1951年 |
創立30周年記念に体育館の緞帳を寄贈
「湘友会報」第1号発行 |
1952年 |
朝日新聞社主催 全国吹奏楽コンクールにて第一位 |
1954年 |
初代校長赤木愛太郎先生胸像除幕式挙行 (制作 東京芸術大学教授・堀 進二氏) |
1957年 |
浦和高校との第一回定期戦(10月19日に浦和高校にて)。その後2002年の第46回まで続く。 |
1958年 |
母校罹災(同年2月24日 本館・付属建物)に際し、積極的に募金活動を行い、援助公演の純益を贈呈
(母校復興援助資金のためダークダックス・松山樹子バレー団公演) |
1959年 |
校歌石碑建立(校歌揮毫 1回生天野武一氏) |
1961年 |
新校旗寄贈 創立40周年記念名簿発行 |
1962年 |
創立40周年記念事業として、赤木苑整備費、 バッティングケージ、移動サッカーゴール寄贈 |
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1964年 |
通信制部会発足
校歌楽譜碑寄贈 |
五か条の校訓と現在の教育目標 |
現在の教育目標(1964年制定)
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五か条の校訓(1927年頃成立)
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謙虚 理想 読書 |
創造 交友 実践 |
寛容 自律 スポーツ |
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立身報国 勤勉力行 質実剛健 和衷協同
天分発揮 敬神斉家 (1933年追加) 履正執中 (1933年追加) |
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| 五か条の校訓の経緯(50周年記念誌より) |
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1965年 |
生徒会館(清明会館)建設のため、創立50周年記念事業の一環として募金活動実施を決定
(1966年 清明会館落成 設計 17回生千塚滋夫氏)
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1967年 |
増田弥太郎氏(1回生)第3代湘友会会長に就任 |
1969年 |
新体育館落成を記念し緞帳を寄贈 (デザイン 27回生加賀恒久氏) |
1972年 |
創立50周年記念名簿発行 |
1979年 |
創立60周年記念事業の基本方針決定 (湘友会名簿発行、赤木苑整備、財政確立のため募金活動) |
1981年 |
定時制部会発足 |
1984年 |
富岡周吉郎氏(9回生)第4代湘友会会長に就任
創立70周年記念事業のため5千万円の募金活動に着手 体育館の緞帳を寄贈 |
1988年 |
会則改正実施、定時制と通信制の代表が湘友会副会長に就任 |
1990年 |
杉山 巖氏(27回生)第5代湘友会会長に就任 |
1993年 |
校舎全面建て替えに伴い、グランドに建てた仮設校舎へ移転 |
校舎全面改築 |
1993年に校舎建て替えが決まった時、当初、県は今のグランドに校舎を建て、丘の上をグランドにする計画だった。
それを知った同窓生たちは、校歌にもあるように、校舎はどうしても丘の上でなければ、と大反対。
県議会でももめたようだが、結局、こちら側の意見が通り、今ある姿に落ち着いた。そのために、2年間プレハブ校舎で過ごした生徒もいる訳である。
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1995年 |
校舎内の湘友会会員寄贈による絵画の修復と額装 |
1996年 |
校舎落成記念式典挙行・創立75周年記念名簿発行
新校舎完成時に多目的ホールの諸設備・図書館の書架を寄贈 |
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2000年 |
湘友会ホームページ開設 |
2001年 |
創立80周年記念行事を実施・名簿発行 |
2002年 |
天野武和氏(31回生)第6代湘友会会長に就任 |
2004年 |
母校国際交流委員会、姉妹校セントラル高校(アメリカ)に生徒10名、教師2名 訪問
新入会員向け小冊子「秀麗の富士 湘南」発行 |
2005年 |
湘友会ホームページ全面改訂
会員数約46,000名 |
2006年 |
創立85周年記念名簿発行
第1回「青春かなが校歌祭」参加 主導的な役割を果たす |
2007年 |
新入生向け小冊子「秀麗の富士 湘南」発行
通信制閉課程式行われる |
2008年 |
県立高校改革により、通信制は平沼高校通信制と統合、通信制独立校へ移行 |