創立以来の訓育について概観すると、開校当時は生徒も職員も少ないので、さしあたっての心得としては、服装の整備・教室の出入り・清掃ぐらいで、特に形式ばった規定もなく、
また自然に従って無理な規定をしないというのが、学校長の方針でもあった。
しかし大正12年度(1923年)あたりになると、生徒もふえるし、指導の方もそろそろ多忙になった。
そこで、最高学年の生徒を風紀委員に任じ、通学区域を7地区に分けて、職員とともに生活指導に当たるという組織が作られた。
それでも問題はしばしば起ってきた。関東大震災後の第二学期末の考査には、本校最初のカンニング行為が出たり、
大正14年(1925年)の本校最初の関西旅行の時には、あらかじめ周到な注意がなされていたにもかかわらず喫煙行為が見つかったとかで、
そのつど職員を悩ませている。その後、五年生全員を風紀委員として、しばしば会合を開いたり、地方別父兄会を開いて、
父兄との連絡を密にしたり、または、職員と生徒との自由な話し合いの機会を持つため、毎週日を定めて職員と風紀委員との会食、
クラスの会食などを行ったり、いろいろな方法を講じた。
さらに昭和2年(1927年)には、毎週土曜日に朝礼を実施することになったが、この頃から、朝礼などでの校長の訓話の内容が、
次第に校訓となってまとめられて来たようである。いわゆる「五か条の校訓」 立身報国・勤勉力行・質実剛健・和衷共同・天分発揮 がそれである。
この校訓の成立については、創立十周年の記録に「それは何時校長が作られたというわけでなく、時折生徒に訓話しておった要領なのだが、
先年その筋から校訓の調査があった時、ないというのも変だというのでまとめめられたものである」とあって、何年とも定め難いが、昭和3年9月の学校経営要覧には
記載されているから、およそその頃でき上がったものといってよい。
なおこの5か条の校訓は、昭和8年(1933年)になると、さらに2ヶ条が加えられ、これを次のように七曜に配して、毎日の訓育目標としていた。
- 日曜日・・・・・敬神斉家
- 月曜日・・・・・立身報国
- 火曜日・・・・・天分発揮
- 水曜日・・・・・履正執中
- 木曜日・・・・・勤勉力行
- 金曜日・・・・・質実剛健
- 土曜日・・・・・和衷協同
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