浦高戦の思い出 | |
湘南高校教諭 石井 武(55回生)
私が湘南商校に入学して一ヶ月後に初めての浦高戦を経験しました。
当時はまだ入学したてで右も左もよくわからず、前日に推戴式なるものが行われ、運動部の先輩たちがずらっと舞台前に並び、応援団によって、校歌・応援歌の指導(?)が行われ、
ともかく、「翌日朝早くの電車にだけは乗り遅れるな!」と何回も念を押されたのが記憶に残っています。 さて、それから十数年がたち、自分が母校の教壇に立つことになったとき、真っ先に担当することになったのが、この浦高戦であるというのも何かの因縁でしょう。
ちょうど40回記念と、湘南での4年ぶりの開催ということで、駅前の商店街の方々に協力をいただいて、歓迎の横断幕や看板などを多数寄付していただき、
その準備や設営で走り回ったことや、当日の藤沢駅から学校までの浦高生の誘導など(何せ生徒は経験がありませんでしたので)自分のおぼろげな記憶を頼りに
一日中気を抜けなかったのが、久々の浦高戦との再会でした。 |
あのころの浦高戦 | |
PTA会長 鈴木直人(36回生)
あのころとは1958年(昭和33年)から61年にかけての3年間である。校舎の3分の2近くを焼き尽くした大火は、私たちが入試を受ける数日前のことだった。
校門脇の楠(くすのき)も、校舎に面していた側半身が焼けこげ、ひどく痛々しかった。 改めて浦高戦を振り返ると、さすがと思うのは、こうした全校挙げての対抗戦を企て、相手を探して申し込んできた同校の構想力である。
当時も進学校として大学受験に照準を合わせていたはずだが、だからこそ受験だけではない世界を経験させ、校外とりわけ県外の高校とも交流させたいと考えたの
だろう。 |
浦高戦の思い出 | |
PTA副会長 岡崎雅好(43回生)
私が三年生の時の浦高戦は、湘南高校が浦和高校まで出かけていく順番でしたが、あの頃は学校から浦和までバスを連ねて行きました。 |
浦高戦で得たもの | |
第43回浦高戦実行委員長
はじめに 1997年5月14日、僕にとって初めての浦高戦。
当時は浦実となんの関係もない一般生徒として参加したが、唯一参加した騎馬戦では泥だらけになり最悪だった。
結局結果は惨敗で、正直云って浦高戦にはあまりいい印象を持っていなかったと思う。 浦高戦の意義浦高戦の存在意義というのは浦実の中で重要な問題であった。 周りのささえもあり結果として8年ぶりの勝利を運良く手に入れることができたのだが、それでもなお存続問題は消えることがない。 共学と男子校の違いなどにより、現在の浦高戦には存在意義が見出されていないからだ。 今まで浦実でも多くの改革が行われてきたがその間題の解決までには至っていない。 それを今の自分なりに考えてみると、「湘南生としての自分を再確認する場」だと思う。 勝った時は本当に多くの生徒が喜んでくれたし、実行委員同士の会議でも必ず浦和対湘南という構図が現れていた。 普段は意識していないが、愛校心が、自分達の中にあるのだと思う。 もちろん運動部の発表の場という役割もあるが、これが40年以上も浦高戦が続いてきた理由であり、いまもう一度見つめなおすべきことではないだろうか。 浦実で得たもの今振り返って見ると、自分を含めて浦実というのは一般生徒が考えている以上にプレッシャーを感じながら活動していた気がする。 体育祭の仮装パートも経験した立場から言わせてもらうと、体育祭はたとえ順位が悪くて失敗したとしても、良い思い出として許される部分がある。 しかし浦高戦では負けや、つまらないという批判が出るとそのまま廃止へとつながってしまうのだ。 そのプレッシャーで実際僕も準備期間中に、4キロほど痩せてしまった。 友達には「そこまで苦労してどうしてやる必要があるの?」とよく言われた。確かに楽な仕事ではないし、見返りがあるわけでもない。 だが浦高戦を通じて得た友人や経験は何にも代えられないものだと思う。 「男女の差を無くすためにはなにをすれば良いか」、「どうすれば2000人以上にもなる人を楽しませることができるか」など毎日考えたことは今でも確実に自分の中に活かされている。 最後に湘南生へ大学生になった今よく感じるのは湘南高校がいかに恵まれた環境にあるかということである。 あれだけ不安と期待がいりまじって充実した生活は2度と送れないと思う。 だからこそ短い3年間を大事にしてほしい。体育祭であれ、部活であれ何にでも自分から積極的にチャレンジすれば、きっとかけがえのない思い出になると思う。 |