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湘南高校文化祭の年表 |
湘南高校記念誌に掲載された文化祭に関する記述を集めて、時系列に編集しなおしたものです。 経年を理解しやすくするために、西暦に直しています。 |
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2006年文化祭 パンフレットより |
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2005年文化祭 パンフレット表紙 |
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2004年文化祭 パンフレット表紙 |
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2003年文化祭 パンフレット表紙 |
2001年 |
2000年
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1993-2002年 80年誌でのこの10年の回顧 プレハブでの文化祭では、文化部に加えてクラスでの参加もさかんで、空き教室がないにぎわいであった。机や暗幕などの備品は不足状態であった。 プレハブで設備が整わない中で、特別会場は広い部屋に自前でステージを組んで発表したり、ライブは音が漏れないように会場に段ボールを何重にも張り付けるなどの工夫も見られた。 特に電気の問題は深刻で、ライブは電線から直接電気を引<などして対応した。 新校舎完成後は教室や備品にもゆとりができ、余裕を持った発表が可能になった。 いままで多数の運動部の生徒が文化祭を裏方として支えてくれてきた。白分の練習の合間に雑用をこなし、運営してくれている。 しかし、部員数の減少などにより今まで通りではうまくいかないことも多くなってきている。 また、実行委員レベルでは他課程の生徒や教員との交流も見られるが、一般生徒の間では交流は少ない。 実行委員会では三課程合同企画等を企画しているが、三課程間の交流という意義は最近は薄れてきているように思われる。 定時制 数年前までは定時制の参加規模が小さく、生徒も惨めで悔しい思いをしていたようだが、最近は文化部以外に、学年単位で参加し、 発表、展示、販売とも全日制に勝るとも劣らない充実したものになってきている。 |
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1999年文化祭 パンフレット表紙 |
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1998年文化祭 パンフレット表紙 |
80周年記念誌より 通信制 |
70周年記念誌より |
1990年 |
1989年 |
1988年 第四十回文化祭 文実の積極的な宣伝により、クラスやグループによる有志参加が前年度より七団体増加した。 サブタイトルの『ペレストロイカ』が示すように、多くの、そして大きな変化があった。 文化祭の基本方針には、「クラブ活動の発表を軸として」という語句で、文化部の発表を重視しながら、毎年決まったように「全員の参加を目指し…」という語句も入っている。 「全員の参加」の中には、「文化祭実行委員会に加わり、文化祭の運営に参加する」「文化部の発表を見学することによって参加する」という意味が含まれている。 しかし、文実は見学を真の参加とは考えておらず、少しでも、文化部以外の生徒がクラスや有志として参加できるようにと、模索してきた。 食堂には新しく「ピザハウス」が加わり盛況であった。 また、文化祭の前夜祭的催しである、参加団体の発表内容を紹介する集会もおこなわれた。 女子の下校時刻が六時半に繰り下げられたのも、この年からである。 女子の活動が盛んな文化部から、少しでも準備時間を長くしてほしいという強い要望が出され、生徒の署名、協議会等をへて、三十分の繰り下げが実現した。 また、多くの生徒が参加しやすいようにと、後夜祭が上庭へと移された。 この年の後夜祭には、定時制のバンドも参加し、本校の文化祭が全・定・通合同の行事であることを印象づける意味で意義深いものとなった。 このように、多くの改革がなされた文化祭であったが、一方で、有志参加の増加により予算・使用教室が削減されるのではという危惧や、 文化部を軽視しているのではという疑心から、文化部が文実に対して不信感を募らせたり、 職員会議でバスケットボール部のフリースロー大会が否決されるなどのいくつかの間題も残した。 |
1987年 |
1986年 |
1983年 |
1980年 |
1981年 60周年記念誌より |
50周年記念誌より |
1965年 |
創立40周年文化祭 指揮する香川校長(40周年記念誌より) 1962年 40周年記念誌より |
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1948年第一回湘高祭 1948年の秋も深まった11月初旬、新制高校発足記念と銘うたれた第一回湘高祭が開催された。 4月に予定していた運動会が雨のため順延になったので、6日、7日の文化祭へと三日間連続の湘高祭となった。 準備は従来の企画委員から選出された執行委員を主体にして、もっぱら生徒の手で行われ、職員とPTAは影の援助役にまわった。 これこそ自治への第一歩という意気込みは少々の難点を覆いつくし、その収穫も大きかった。 六日もあいにくの雨だったが、展覧会場、芸能会揚(かっての武道館)ともに盛況だった。
ことに演劇では、一日二日三日と希望各組の予選を経た入選劇が演じられ、菊地寛「屋上の狂人」 (高一)、フランスの喜劇、 「署長さんはお人好し」が抜群だったほか、
有島武郎の「ドモ又の死」をもとにした「かりそめの死」、レディグレゴリー「月の出」や中三による「夢」、鈴木泉三郎「生きてゐる小平次」がそれぞれに好評を博した。
板敷きにゴザを敷いただけの粗末な観客席に朝九時からつめかけた熱心な観客は、四時終演が二時間近く延びても、立とうとする気配さえ示さなかった。
それは人々がただ娯楽に飢えていたというだけからではなかった。 「新しい時代」を若い子弟の動きの中からつかみとっていこうとする熱意のあらわれだったのだ。 この活気と、この喧騒と、この雑然と、この意欲と、それはまさに民主主義の上に文化国家を標榜した新生目本の縮図でもあったのだ。 「湘高祭が我々の手で我々のために出来たという、この意義は大なるものがあると思う」、そう自らに評価を下した新聞子(刷新第三号)は、 「我々は我々のプライドのためにも湘高祭を意義あらしめなくてはならない。 これが我々の自治によって湘南を立派にする基となり、我々によって行なわれた自治の成果ともなるのだ」と今後に強く呼びかけていた。 準備から実施へと長い苦心を経てすぺての後片付けも終り、再び平常の勉学へと立戻って登校した朝、門の傍の黒板に誰が書いたのか、 「祭は終った 秋が 深い」の三行が朝陽をうけて、さわやかに輝いていたのを、いまも忘れることができない。 |
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